昨日、ネットで偶然、アルピニストの野口健氏の
遺骨収集運動を始めた理由を読んだ。
遭難しそうになったときに、誰かが自分の
骨だけでも祖国に帰してくれたらと思ったそうだ。
帰国したら祖父の遺骨を収集しようと思い、
南の島に行ったら、そこに夥しい数の遺骨を
見つけてショックを受ける、それが野口氏の
遺骨収集の動機である「自分語り」だ。
南洋諸島に夥しい数の日本兵の遺骨が
放置されていることの衝撃、
この動機は笹さんも同じである。
これはある意味、仕事場に薬害エイズの
被害者である子供たちが訪ねてきて、
迫りくる死の恐怖と戦う姿を目撃した
わしの衝撃と重なる。
子供はわしの最大の弱点である。
「情」あるいは「ヒューマニズム」からの
ボランティア運動の始動だ。
わしの場合、その子たちが一人づつ
死んでいって、家を訪ねて線香をあげ、
親と話すと、早く解決しなければという
切迫感に駆られ、さらに運動へ
のめり込んでいったたものだ。
事態が動かぬなら厚生省へのテロも
厭わぬ、逮捕されれば国民的関心になる、
とまで思い詰めたところが、わしが
右翼チックなところかもしれない。
わしと笹さんの違いは、
運動の「出口」を考えていたことだろう。
運動は「国家」を動かした時点で
終わるのである。
菅直人が厚生省から事実上「特定秘密」に
されていた資料を提出させ、国が謝罪し、
被害者と和解した時点で、
民間人のボランティア運動は終わった。
わしは「日常に帰れ!」と
メッセージを出した。
学生たちに、さらなる薬害の解決が必要なら、
プロになれ、自分たちが厚生省や製薬会社に
入って、解決すればいいとわしは言った。
その経緯は『脱正義論』に描いた。
安倍首相が政府主導で遺骨収集を
行うのなら、「出口」は見つかったのだ。
笹さんは日常に帰っていいのである。
問題は笹さんがその寂しさに
耐えられるかどうか?
あの薬害エイズ運動に参加した学生たちのように、
「日常に帰れ!」と言うわしに反発しないかどうか?
それが問題なのである。
笹さんはこの回答をブログで書かない方がいい。
自分の気持ちを整理せずに書くと、
矛盾が噴出し過ぎる。
日曜の「ゴー宣道場」生放送版で、語った方がいい。
ただ、わしが明言しておきたいのは、
遺骨収集が笹さんのすべてではない、
そこを評価して「ゴー宣道場」に誘ったのではない
ということだ。